【読書メモ】ライト、ついてますか
- 作者: ドナルド・C・ゴース,G.M.ワインバーグ,木村泉
- 出版社/メーカー: 共立出版
- 発売日: 1987/10/25
- メディア: 単行本
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副題に「問題発見の人間学」とある通り、問題に向き合い、解決に向けて思考を巡らせるための考え方を人間学の側面からやや辛辣なユーモアを交えながら解説している。
初版は1987年の古典的名著だが、出版年は意識して読むほうが良い。Amazonのレビューにもいくつかコメントを見かけたが、まず翻訳がわかりづらい。また、エレベーターや計算機という言葉は現代のそれとはやや違うものとして書かれているので注意が必要。これらは出版された年代を考えれば仕方ない面もある。それを考慮して読めば、問題解決に向けた普遍的な考え方や思考の巡らし方について著者が述べる本質的な部分を読み取ることができて問題解決力を養うためのヒントが得られるはずである。
何が問題か?
新築タワービルのエレベーターが遅いというエピソード。エレベーターが遅いのが表面的な問題ではあるが、ビル入居しているオフィスの従業員、オフィスの経営者、ビルのオーナーなど、立場によって問題の本質は異なる。
- 「何がまずいか」をどう決めるか?
- まずいのは何か?
- そのために、何ができるか?
問題とは、望まれた事柄と認識された事柄の間の相違である
望まれた事柄か認識された事柄かのどちらかを変えて相違をなくすことで問題はなくなる。
問題は何なのか?
ある11件の資産の入札プロジェクトのエピソード。それぞれの資産には様々な条件があって、入札に関わる4社がそれぞれ価格をつけると400万通りになり、その組み合わせの中から最も最適なものを選ばなければならない。
解法を問題の定義と取り違えるな。ことにその解法が自分の解法であるときには注意
複雑な問題を解くことが問題の定義ではないということ。
正しい問題定義が得られたという確信は決して得られない。だがその確信を得ようとする努力は、決してやめてはいけない
「究極の解答」は存在しないが、「問題は何か?」を問い続けることが重要。
問題は本当のところ何か?
すべての解答は次の問題の出所
ある問題を解くために状態を変えると別の問題を発生させることになる。 問題の転嫁 によってより小さな問題に状態を変えることができるが、たいていの場合は新しい問題が無意識的に作り出される。
新しい視点は必ず新しい不適合を作り出す
解決策を実施する前にこの視点を持っておく。不適合とは「その解決策とつき合わなければならない人間とうまく合わないような解決策」のこと。問題の当事者ではない「設計家」はたくさんの不適合を作り出してしまう。
同じ言葉を同じように理解しているという保証は決してない
行間を読んで自分たちの都合の良い解釈をしたり、単語の使い方1つで全く異なる意味に取れてしまい大きな損失を出すこともある。言葉を表面的なものから意味のあるものにするためには「言葉遊び」や「辞書方式」のような「社会的過程」が必要である。
それは誰の問題か?
他人が自分の問題を自分で完全に解けるときに、それを解いてやろうとするな
自分たちの問題は自分たちが一番理解しているので自分で解くほうが良い。
もしある人物が問題に関係があって、しかもその問題を抱えていないなら、何かをやってそれをその人物の問題にしてしまおう
反対に自分たちでどうしようもない問題であれば、「私の問題」を「われわれの問題」に変えてみる。学生の増加によって大学の駐車場が不足してしまったので、専用の駐車場を持つ学長も問題に巻き込んでしまおうというエピソードで語られている。ただし、立場や考え方が違うとうまくいかないことも多い。
変化のために自分をせめてみよう、たとえほんの一瞬でも
自分自身の考え方を変えてみることで問題が簡単に解決することもある。
もし人々の頭の中のライトがついているなら、ちょっと思い出させてやる方がごちゃごちゃ言うより有効なのだ
書籍のタイトルにもなっている車のライトの問題が出てくる。設計者や技師は何もかも自分が面倒を見なければならないと考えて問題を複雑にしてしまう。実際には「ライト、ついていますか?」と言ってやるだけで十分な問題だったりする。
それはどこからきたか?
問題の出所はもっともしばしばわれわれ自身の中にある
入国手続き中に書類のコピーが一部紛失していることが発覚し、役人側が紛失した可能性も否定できないにもかかわらず、官僚主義的に書類の不備として扱われそうになるというエピソード。
自然に起きた問題は2つの理由で最悪なものである。
- どうしようもないという気持ちに陥りがち
- 自然は我々に対して無関心で動機をもたないゆえに手に負えない問題を引き起こす
この問題はどこからきたのか?
という問いかけをすることで
問題を「自然」の領域から引き出して、建設的な思考と解決への行動、という領域に移すことができる。
著者らの経験によれば、問題が実は問題解決者自身に起因する割合は53.27%に及ぶ
「この問題はどこからきたのか?」を問いかけたとき、問題は「どこでもないところから来ている」可能性がある。正確にいえばそれは「その問題自体からきた問題」である。このようなどこでもないところから来ている問題を解決するためには、問題を出所に送り返す。
試験のような問題は背後に設計者がいて、むずかしいように設計されており、その問題解決はパズル解決となる。このような問題にどっぷりと浸かった者にとっては、自明な解答のほうが混乱させる場合がある。
われわれはそれをほんとうに解きたいか?
われわれはたいていの場合、何か問題を抱えていると感じている。
問題というのは人が望むところと、物事がどうなっているように見えるかとの差である
自分が問題を抱えていると知っているかどうかは感じかたの問題だが、何が問題かを知ることは別のことだ。何が問題かをわかっていれば解決するのは易しいが、分かっていると思っていても間違いのことがある。他人のために問題を解いてやるときは、たとえ計算機を駆使して問題を解いたとしても、その答えを知るまでそもそも何が問題かをわかっていないものだと認識しておくべきである。
ちょっと見たところと違って人々は、くれといったものをだしてやるまでは何がほしかったか知らぬものである
何がほしいか完全に知っていたとしても、問題はそれで終わりにはならない。時には問題のことを忘れてしまうのが最善の場合もある。
あとから調べてみれば本当に問題を解いてほしかった人はそんなにいないものだ
どんな問題であれ、本気で問題に手を付けようとする前に必ず発してみなければならない問いが
私はそれを本当に解きたいか?
である。解答が得られてみたらそれはちっともほしいものではなかったということもある。例えば問題解決者は、問題が解けたために失業するかもしれない。
魚、水を見ず
人は 順応する ものなので、問題について考える時、順応した物事は考慮から除外されやすい。問題解決者は他の関係者が無意識にその中で泳いでいる「水」をはじめから見ようと努力しなければならない。その水は問題が解けたとき、砂に変容するかもしれない。
まず汝自らに対して真実なれ。
問題解決は決して道徳的に中立の活動ではない。そのため問題解決者は問題を解く前から解答に至るまで、道徳的側面について考えてみる必要がある。