radioc@?

レディオキャットハテナ

【読書メモ】日本語練習帳

日本語練習帳 (岩波新書)

日本語練習帳 (岩波新書)

  • 作者:大野 晋
  • 発売日: 1999/01/20
  • メディア: 新書

文章の書き方の本としては言わずと知れた名著ですが、ちゃんと読んだことがなかったので読みました。先日読んだ『 クレイジーで行こう! 』でも、正しい日本語を使うために、著者がこの本を社員に紹介していることが書かれていたので、読んでみたいという気持ちがいっそう高まって一気に読みました(余談ですがこのように読書で得た情報をきっかけに自分に動機づけして一気に本を読むのも読書のテクニックの1つだと思います)。

本書は、タイトルの通り正しい日本語を使うための思考の訓練書です。単なる文法理論や論理的な文章術だけでなく、言葉ひとつひとつが生まれた歴史的背景まで遡って意味を考えることで、正しい言葉を選んで使うことができるようになります。読んでみると、日本語の奥深さを改めて実感するとともに自分がいかに適当に言葉を選んでアウトプットしていたか気付かされます。

ものごとの理解を深めるための言葉

本書では、「思う」と「考える」はどう違うのか?が例にあげられ、まず単語の意味の違いに敏感になることが求められています。その言葉が生まれた背景まで遡った解説を読むことで、微妙な違いを表現するためにそれぞれの言葉が必要であったことを理解し、正しい言葉を選ぶ思考が得られます。

異文化の輸入によって意味づけされ拡張してきた言葉

著者によると、ヤマトコトバという古い言語体系が確立した古代の日本にはまだ文字がなかったようです。その後、中国文明と一緒に漢字が輸入された時、儒教や仏教、医学や薬学を学ぶために漢字を取り入れて、日本語の漢字が生まれました。同じように明治時代にはヨーロッパ文化を取り入れて片仮名が生まれています。

日本人は非常に忠実に、「この言葉の由来は何か」ということを字で書き分けています。漢字以前のヤマトコトバは平仮名、中国文明から来た概念や言葉は、漢字で書いています。ヨーロッパ文明から来た言葉は片仮名です。

言葉の背後にある由来や意味を理解したいという思いから漢字や片仮名が生まれてきたことがわかります。つまり、日本人は異文化や他者を理解するために自身の言葉を拡張し、豊かな文章表現力を身につけてきた民族なのです。

敬語も輸入によって生まれた

人を上下でとらえる敬語は中国の家父長制の考え方が輸入されてから漢語とともに広まったようです。そのため、ヤマトコトバに由来する言葉には相手を上下で扱うものはありません。そのかわり遠近で扱います。近く(内)が親愛、遠く(外)が尊敬になります。自分のことを「うち」というのもこれに由来します。次のような表現がヤマトコトバに由来する尊敬語の元になっています。

  • 近くのものは「こ」や「そ」で表す
    • 「これ」「それ」「こなた」「そなた」
  • 遠くのものは「あ」や「か」で表す
    • 「あれ」「かれ」「あなた」「かなた」

家の外=自然に起きることは自分の力ではどうにもならないものとし、畏敬を込めて表す言葉がやがて尊敬語として扱われうようになりました。「おいでになる」「いらっしゃる」のような表現も外で起きることに「なる」「ある」という畏敬を込めたことから生まれた尊敬語です。

古代の心性では、「自然のこと、遠いことと扱い、自分はそれに立ち入らない、手を加えていない」とするのが、最高の敬意の表明でした。その表現が言語形式の上に定着し、後々まで伝承されて、自発の助動詞ル・ラル、後のレル・ラレルが同時に尊敬の意を表し、現代に至った。だから、尊敬形にはナルを使い、レル・ラレル・アルの付いた形があわせて使われているというわけです。

上下の概念が家父長制という制度から人為的に表現されたのに対して、ヤマトコトバに由来する遠近の表現は自然のようなどうにもならないものを敬意を払いながら理解しようと生まれたものだということに日本の文化的なものを感じます。

言葉は相互理解の手段であり規範でもある

言葉について、著者はあとがきで次のように述べています。

言葉は制度とか決まったものとかではない。しかし思うままに造形する絵画のような、主体性だけによってなされる表現行為でもない。言葉には社会的な規範がある。その規範にかなう形式に従わなければ、主体的に自分の気持ちや事柄を相手に表現することはできない。受け手は規範に従って表現を受け取り、理解につとめる。聞くことも読むことも、主体的な能動的な行為です。それは規範に従うことを通して成り立つ。言語とはそういう表現行為、理解行為の全体をいうのではないか。

言葉を発する側はもちろん、受ける側もその規範を理解してコミュニケーションを取ることで互いの理解を深めあうことができる、言語はそういう能動的な道具なのです。

「ハ」と「ガ」の違い

例えば、「私は文章を書いている」と「私が文章を書いている」では、意味がどのように変わって、どのように理解されるのか?というように、たった1文字の言葉の選び方によって表現が決まります。その1文字の違いをお互いに理解しコミュニケーションの規範にすることで相互理解が深まります。

「ハ」の使い方は問答形式、静態的記述

「ハ」を使う場合は場が設定されたり状態が設定される、静態的な表現になります。

  • 話の場の設定:山田くんはビデオにうずもれて暮らしている
  • 対比:山田さんは碁は打つが将棋は指さない
  • 限度:四時からはあいています
  • 再審:美しくはなかった

「ガ」の働きは動態的、新事実発見的

「ガ」を使う場合は状態の変化や生まれた場面をとらえる、動態的な表現になります。

  • 名詞と名詞をくっつける:彼が病気をして医者にかかった話は聞かない
  • 現象文をつくる:花が咲いていた

例としてあげた、「私は文章を書いている」と「私が文章を書いている」についてもそれぞれ込められる意味が変わってきます。例えば、前者は「私」に軸が置かれ、食事したりネットを見たりすることもあるけど、今この場では文章を書いているんだよ、という意味になります。後者では「文章」のほうに軸が置かれ、はてなブログでは様々な人が文章を書いて公開しているけど、今この文章を書いているのは私なんですよ、という意味に読み取れます。たった1文字ですが、相手に何を伝えたいか、どの言葉を選べば意図が伝わるかを考えて選ぶことが重要です。そして、どれを選ぶかは自分本位ではなく、共通の規範を理解して選択する必要があります。

相手をよく理解しようと努力する

前述のあとがきで、著者は以下のように考えを述べて締めくくっています。

言葉は天然自然に通じるものではなくて、相手に分かってもらえるように努力して表現し、相手をよく理解できるようにと努力して読み、あるいは聞く。そういう行為が言語なのだと私は考えています。

どの文章術の本にも良い文章を書くには他者理解が重要だと書かれています。他の文章術の書籍とは視点を変えて言葉の由来などの歴史的背景にまで踏み込んだ書籍ですが、他者理解に努めるということが文章表現なのだと締めくくっている点は共通しており、文章スキルを高めるためには忘れてはいけないポイントだと改めて理解できます。